熱田神宮の歴史についてまとめ
熱田神宮は草薙の御剣を祀ってより1900年の歴史があります
神剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時にしっぽから出てきた剣だとされています
神剣は三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八坂瓊勾玉)として宮中にあります
この神剣の祀ったものが熱田神宮になります
熱田神宮の由来・1900年の歴史についてまとめました
熱田神宮の歴史
熱田大神と天照大神
天照大神は日本で一番古い神で初めて日本の神になられていて、日本国民統一の神になります(太陽神の性格と巫女の性格をもつ)
天照大神の御弟神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して天叢雲剣を手に入れ、伊勢神宮に奉納されています
熱田大神はこの神剣を草薙御剣として御霊代としている天照大神のことになります
熱田神宮の古代時代
熱田神社が鎮座しているは熱田台地は弥生時代は宮廷式土器が出土して、高倉遺跡なども見つかっています。
境内の白鳥古墳は日本武尊が白い鳥となって舞い降りた逸話もあり、妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)のお墓とも言われています
熱田台地は古代から豪族などの古墳もあり、当時の勢力の中心地だったようです
草薙御剣(くさなぎのみつるぎ)の誕生
東国平定の命令を受けた日本武尊(やまとたけるのみこと)は伊勢神宮に参拝して大和姫命(やまとのひめのみこと)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けられて東国に向かわれました。
途中の駿河の国(静岡県)で賊に襲われえて、草に火を放たれました
天叢雲剣で草を払い神剣で賊を滅ぼしたとされています
そのため草薙御剣(くさなぎのみつるぎ)と言われるようになっています
熱田神宮のはじまり
東国を平定した日本武尊は尾張国の宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妃にされた後、天皇より伊吹山の賊を平定する命を受けたが病で倒れられてなくなってしまいました。
草薙御剣は宮簀媛命に託されて、熱田の地の熱田神宮で祀られました
西暦113年になります
草薙御剣の持ち出し事件とは
飛鳥時代の668年には外国の賊徒に草薙御剣が持ち出されそうになったが、難を逃れ宮中で一時預かられいたようです
その後、熱田の地に戻られたそうです
神剣が戻された喜びが神事として『おほほろ・・・』笑う酔笑人神事(えようどしんじ)として残り、鎮皇門跡から都に向かい皇室や国家の平安をお祈りする神輿渡御神事が現在でも行われています
平安時代
第54代仁明天皇の午前で尾張浜主が自作の『和風長寿楽』を舞って『翁とてわびやはおらむ草も木も栄ゆるときに出でて舞ひてむ』と和歌を詠んでお褒めにあづかったようです
そのなごりで舞楽神事が行われています
太政大臣藤原師長(ふじわらもろなが)の琵琶
当時の都の実力者の平清盛に追われて尾張国に流されていた太政大臣藤原師長は熱田神宮の親善で琵琶を演奏して人々に感銘を与えています
琵琶は藤原師長が罪を許されて都に戻るときに奉納されています
源頼朝と熱田神宮
源義朝に嫁いだ熱田神宮の大宮司藤原季範の娘の由良御前(ゆらごぜん)は源頼朝の母になります
頼朝誕生の地は熱田区の誓願寺の門前になります
頼朝は熱田神宮を崇敬して、鎌倉の鶴岡八幡宮に『熱田社』を作っています
南北時代
熱田大宮司は後醍醐天皇の武臣として仕えて後醍醐天皇の皇子宗良新王を手助けしたりしている一方で後醍醐天皇に敵対していた足利尊氏とは熱田大宮司家とは先祖が同じという縁から神剣を祀る社で選書祈願を依頼して受けています
祈願依頼所は熱田神宮の宝物館に納められています
蓬莱伝説
蓬莱伝説は鎌倉後期に書かれた『渓嵐拾葉集』に書かれているものが伝承として伝わっています
中国の不老不死の仙薬がある東の海の蓬莱島とは熱田神宮のことだと言われています
また、熱田大神が中国に渡って楊貴妃になった話なども有名です
室町時代
熱田神宮の1419年1458年の遷宮は足利家の援助のもと行われています
第8代足利義政は表着や檜扇などを奉納しています
戦国時代
織田信長
1560年織田信長が熱田神宮で参拝してから今川義元と桶狭間の戦いに大勝利したのは日本の歴史でも有名な話です
また、熱田神宮の大宮司の千秋季忠も参戦した記録があります
境内の信長塀は信長から寄進されたもので、パワースポットにもなっています
その後も熱田神宮の改修にも積極的にかかわったそうです
豊臣秀吉
豊臣秀吉は1590年に熱田門前町の発展のために『豊臣秀吉禁制』を出しています
押し売り・狼藉・喧嘩口論・伝馬役・売買物の諸役免除などを禁止しています
秀吉の母君の大政所が熱田神宮を参拝する時は社殿の造営をして大宮司家にも領地を与えています
江戸時代
徳川家康
幼少期に熱田町の加藤図書助で織田方の人質として過ごしています
家康にとって特別な熱田神宮は特別に加護されています
熱田神宮の土地には神領地として年貢や役は免除されています
1600年には社殿の修復を命じて加藤清正が鎮皇門を修復しています
鎮皇門は昭和20年に焼失しています
尾張藩主徳川義直
尾張初代藩主の徳川義直は特に熱田神宮を手厚く保護しています
1636年には巨大な琴を奉納されています
神祇賽典を書いています
貞享(じょうきょう)の大修理
徳川家康の命で1600年から80年間大修理は行われていませんでした。
長年、幕府に修復の懇願の結果、5代将軍徳川綱吉の手で修復が行われています
その時に造営された西楽所は現在も見ることができます
その後は尾張藩によって定期的に修復されています
修復後、訪れた松尾芭蕉は『磨ぎ直す鏡も清し雪の花』と詠みました
東海道53次の『宮の宿』
東海道53次の『宮の宿』は熱田神宮のことにで、次の桑名宿へは船旅になるために七里の渡しで船着場が現在も残っています
宮の宿は大名の本陣が2軒。旅籠が248軒と人口が1万人余りいたそうです
当時の熱田神宮周辺は非常に賑わったことでしょう
明治期の様子
明治天皇の参拝
明治天皇が王政復古の報告に伊勢神宮と熱田神宮に勅使を出されたあと、ご参拝されて農民が収穫する様子をみて、農業がこの国の基であると示されています
明治期の御改造
1871年に明治政府より官幣大社にしてされて、社殿が尾張造から神明造に改造されています
政府が神社をランク分けして、官幣大社を頂点として国弊社・諸社・無格社と分けられています。
伊勢神宮は別格でランク分けにははいっていません
以前の熱田神宮は尾張造(おわりづくり)になりますが、現在は神明造になっています
大正期
勅祭社になる
勅祭社(ちょくさいしゃ)とは、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことである
伊勢神宮は特別で勅祭社には含まれていません
大正天皇のお手植え
皇太子時代から大正天皇は数度ご参拝されていて、楠を植えられています
日本武尊1800年祭
1914年に日本武尊1800年祭が行われています
113年に亀山市で日本武尊が亡くなって丁度1800年目でした
昭和期
戦後の復興
太平洋戦争では昭和20年頃から空襲が酷くなり、神楽殿・鎮皇門などの建造物が焼失してしまっています
御神体は無事でいたが大半は失われています
1949年から全国からの援助で復旧されています
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